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■昨年の生誕110周年森茉莉展■


森茉莉さんが亡くなったのは昭和62年6月6日。神戸新聞に池田満寿夫さんが追悼文を書いたのは6月11日のことです。

作家萩原朔太郎の娘葉子さん宅ではじめて森茉莉と会ったのは池田さんが25歳の時。

「・・・(略)・・・私は15年ほど前にアメリカから帰国していた時。一度だけ下北沢の茉莉さんのアパートへうかがったことがある。当時腎臓を悪くしておられ、顔色がさえなかったが、食事はばらの花びらを食べているというのでびっくりすると、本当にそうなんだと証すためにアパートに案内されたのである。「バラを食べるマリア」。まさに森茉莉にぴったりである。それから私が日本にいるときは彼女の誕生日にバラの花束を贈ることにしていた。バラに埋まっている茉莉さんを想像するのがうれしかったからだ。」

薔薇といえばセルジュ・ルタンスも撮影前にモデルをバラの暮らしで香りつけするときに、「バラのスープ」を飲ませていたといいます。

記事https://beautist.cosme.net/article/735259

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森茉莉さんといえば、小説やエッセイでも美に関するものを書いています。

■巴里製のブリヤンチン、薄紫の透明な固形の荒れ止め、4711番のロオ・ド・コロオニュ。それらのものがパウロの鏡を置いた台の上に並ぶようになって(引用:恋人たちの森)■

小説にあるように、森茉莉さんの愛する美品のひとつに4711(フォーセブンイレブン。
記事 4711 Eau de Cologn(http://lohasstyle.jugem.jp/?eid=244)

カルトゥジオ会の修道僧が、ヴィルヘルム・ミュールヘンスに結婚のお祝いに「aqua mirabilis(アクア・ミラビリス)」の調合方法を贈りました。フランス革命の3年後にあたる1792年のことです。

1922年、森茉莉渡仏時の4711 オー・デ・コロン広告


それからさらに2年がたち、ヴィルヘルム・ミュールヘンスが調合する工場に、フランス軍ドリーエ大佐がグロッケンガッセ4711番地とつけたのですよね。

口コミ https://my.cosme.net/open_entry_review/show/review_id/504017782

フランス軍はアクア・ミラビリス(不思議な水、奇跡の水)をオーデコロン(ケルンの水)と呼び、贈り物としたそうです。もともとは男性が使用していたコロンですが、恋人や家族に持ち帰ったとか。

ちなみにこの頃ナポレオンはイタリア方面軍の砲兵司令官で、あのロベス・ピエールの失脚で降格になった年。

門外不出の香りで誰にもその秘密はわからない。皇帝になったナポレオンが調合法を公にするように命じても口を閉ざしたままのミュールヘンスだったそうです。

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渡仏時の森茉莉


1922年の渡仏時の森茉莉。ちょうど4711のオーデコロンの広告と同じ年です。服装の雰囲気も同じですね。

「恋人たちの森」では、4711のほかにロジェガレも紹介しています。
■靴も、背広も、誂える。レエンコオト、バンド、ジレ、スウェータア、すべて充分に買い与えられて、いる。ロジェ・ギャレの石鹸、巴里製のブリヤンチン、薄紫の透明な固形の荒れ止め、4711番のロオ・ド・コロオニュ。■

エッセイの「私の美の世界」では、なくなったベビー石鹸の恨みをつづっています。
■香料は本ものの紫の匂い菫が理想であるが、科学によって造られた香いでも恍惚するようなのがある。私は菫の花と恋人のようなものであって、菫の香いのするポンジイのベビイ石鹸が消失したことに無限の恨みをのこしている。甘く、柔らかい、だがどこか感覚の深いところに繋がっている、倦いような、深い香いであった。(引用:私の美の世界)■

記事  http://lohasstyle.jugem.jp/?eid=241
口コミ https://my.cosme.net/open_entry_review/show/review_id/504021016

さて、「アヴェ・マリア 森茉莉もしくは牟礼魔利(ムレ・マリア)」…こちらの記事からは、私の毒舌がはじまります。



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